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上杉 隆
評論家・ジャーナリスト

上杉 隆

肩書:フリージャーナリスト

メディア出演など:◆書籍
『人生から失敗はゼロになる―――強く、賢く、そして愉しく生きる』(三笠書房)
『オプエド 真実を知るための異論・反論・逆説』(KADOKAWA)
『誰が「都政」を殺したか? 特別対談 小池百合子東京都知事』(SBクリエイティブ)
『淳と隆のなんだかおかしいニュースの裏側』(双葉社)
『悪いのは誰だ! 新国立競技場』(扶桑社)
他多数



上杉 隆

気鋭の政治ジャーナリスト

都留文科大学卒業。
テレビ局勤務、衆議院議員公設秘書等、「ニューヨークタイムズ」東京支局取材記者などを経て、フリージャーナリストに。
2002年、第8回「編集者が選ぶ雑誌ジャーナリズム賞」で企画賞を受賞。
2011年、「自由報道協会」創設(2012年より公益社団法人)。
2012年、メディアカンパニー「株式会社 NO BORDER」設立。
現在は、政治、メディア、ゴルフなどを主なテーマとして活動中で、インターネット報道番組「ニューズ・オプエド」(平日月~金曜 16~17時生放送)のアンカーを務めている。

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講師情報

講師名

上杉 隆

カテゴリ

評論家・ジャーナリスト


肩書

フリージャーナリスト


経歴

1968年5月3日
福岡県柳川市の福岡県立柳川病院で生まれる
1969年
東京都杉並区へ引越。小学校2年生まで阿佐ヶ谷南1丁目の戸塚荘で過ごす。
1976年
東京都新宿区へ引越。新宿区立鶴巻小学校、区立戸塚第一中学校(現•西早稲田中学校)に通学。
1984年
中学時代に貯めたアルバイト代で高校受験。21学区グループ合格で都立広尾高校に入学。奨学金を受けて、受験料から生活費までの一切を稼ぎながら、渋谷の夜の街と寝床を転々とした高校時代を送る。
1987年
高校卒業と同時に複数の仕事を掛け持ちした渋谷でのフリーター生活に入る。しかし、大学に進学したくなり、高校時代の級友らから使い終えた参考書を譲り受け、独学で受験勉強に励む。
1988年
都留文科大学文学部英文学科入学。信州大学、筑波大学は不合格。入学直後から富士屋ホテル(山中湖ホテル)での勤務開始。都留文科大学ゴルフサークルを創設。
1992年
日本放送協会(NHK)記者職内定、10月より先んじて渋谷の放送センターで新人研修開始。
1993年
都留文科大学卒業単位取得(大学側の事務手続きのミスにより卒業年度は1994年扱い)。4月よりNHK放送センターでの勤務開始。
1994年
9月より衆議院議員鳩山邦夫事務所に入所。5年勤務し、退職時の肩書は公設秘書。
1999年
ニューヨークタイムズ東京支局の取材記者となる(2000年NYC研修)。ラジオ日本レギュラー出演開始。
2000年
処女作『石原慎太郎 5人の参謀』(小学館)を出版。17万部5千部のベストセラーとなる。『週刊朝日』(朝日新聞社)『週刊ポスト』(小学館)『DIAS』(光文社)などで連載開始。
2001年
『田中眞紀子の恩讐』(小学館)出版。5万部越えのベストセラーとなる。朝日新聞、毎日新聞紙上で連載開始。『週刊文春』『諸君!』に寄稿、『文藝春秋』に連載開始。
2002年
フリーランスのジャーナリストとして正式に独立。
文芸春秋での一連の田中真紀子外相取材によって「編集者が選ぶ雑誌ジャーナリズム賞」を受賞。
『田中眞紀子の正体』(草思社)を出版。『月刊現代』(講談社)、『VOICE』(PHP)、『新潮45』(新潮社)連載開始。
アルカイーダ系インドネシア連続テロ取材。ジャカルタ・バリ島での長期取材開始。ラスカル・ジハードおよびジェマーイスラミア幹部との接触に成功する。
2003年
中川昭一政調会長に許可を得、これまで外部に閉ざされてきた自民党記者クラブ(平河クラブ)にて取材。
北朝鮮への入国に成功し、モランボン幼稚園やケチョンの飢餓映像をテレビ各局で流す。帰国後、月刊現代にて『北朝鮮潜入記』を発表。これにより北朝鮮(朝鮮総連)のブラックリストに掲載される。
イラク潜入取材への道中に貨物列車との衝突事故に遭い生死の境を彷徨う。緊急搬送のチャーター機でフランスに運ばれ、パリのアメリカンホスピタルで複数回の手術を経て、リハビリ開始。当初、車椅子生活さえ不可能かと目されていたが、壮絶なリハビリ生活からわずか一年で歩行可能にまで立ち直る。
2005年
ダイヤモンド取材。シベリア・ミールヌイのロシア企業の『アルロサ』幹部のインタビューに成功。『文藝春秋』誌で発表するも、デビアス本社のある南アフリカ共和国への入国を禁止される。
海老沢勝二NHK会長の三選批判記事を『文藝春秋』誌で発表。NHKへ出入り禁止となる。
2006年
ドミニカ移民問題の取材を開始。ドミニカ共和国を訪れ、国賠原告団のインタビューに成功する。
キューバを訪問しフィデル・カストロの弟ラウル・カストロとのインタビューに成功する。なおこの年の7月26日がフィデルの最後の演説となった。
4月、朝日ニュースター「ニュースの深層」のキャスターに抜擢される。放送一回目のゲストは鈴木宗男氏。続いて中川昭一氏、松野頼三氏と立て続けに大物ゲストを呼んで朝日新聞で話題になる。なお、松野氏はこの直後に逝去。生前最後のテレビ出演となった。
『小泉の勝利 メディアの敗北』(草思社)出版。ほとんどのメディアから掲載拒否を受けた稀有な本。
2007年
『官邸崩壊 安倍政権迷走の一年』を出版。出版直後に安倍政権が崩壊したこともあって、9万7千部のベストセラーとなる。発売と同時に安倍事務所ほか多くの自民党議員事務所への出入り禁止となる。
2008年
『ジャーナリズム崩壊』(幻冬舎)出版。正確だ辛辣なその内容によって新聞・テレビの政治部からの出入り禁止が始まる。
民主党党大会においてネットメディアの取材参加を実現。麻生総理解散せずのレポートを週刊文春誌上において発表。スクープとなり、局長賞を受ける(松井清人局長)。
2009年
コペンハーゲンでの東京オリンピック誘致活動へ「謝礼金」を辞退して参加し、クリーンかつ公益となるオリンピックの実現への構想を提言、尽力する。
3月、小沢一郎民主党代表より、これまで閉ざされてきた記者クラブ開放の言質を取り付け、記者会見オープン化を前進させる。
8月、松野順久官房副長官(就任前)や内閣参事官などと秘密裏に打ち合わせを重ね、新しい官邸記者会見のシステムを構築、初代「内閣総理大臣報道官」の内示を受けるも、直前で産気新聞一面で報じられ、人事案が消滅する。
9月、鳩山内閣発足後、外国人特派員記者等の一部が参加可能でもネットメディアが締め出されている点を公約違反であるとして糾弾し、官邸、与党、各省庁の記者クラブを、フリーランス•一部メディアに開放させる。
官房機密費問題の追及を開始。テレビ・ラジオ番組の降板が始まる。
世襲議員の問題を追及した『世襲議員のからくり』(文春新書を)出版、麻生太郎前首相事務所など永田町での出入り禁止事務所が急増する。
「記者クラブ崩壊」(小学館)を出版し、さらに新聞テレビなどの連載打ち切り、出演見合わせが増える。
ウィキリークスの危険性を指摘し、外務省会見にて岡田克也大臣に国家の情報管理体制について質問と提言(一年後、米軍機密情報漏洩事件が起き、世界各国が対応に追われた)、言質を取るも、国は対応せず。
東京FM「タイムライン」の初代アンカーを務める(〜2015)。
2010年
内閣記者会見開放を正式に要請(幹事社:共同通信、フジテレビ)。3月、憲政史上はじめて、オープンとなった内閣総理大臣会見で、「御礼の質問」をして、メディアに叩かれる(鳩山由紀夫首相)。
2011年
東日本大震災で、東京電力がメルトダウン(炉心溶融)の事実を隠蔽して以降、一貫して福島第一原発のメルトダウンに関する情報を発信し続け、「デマ野郎」として扱われはじめる。上杉を含むフリージャーナリストの数名がJOCの原発事故の対処を参考とし、福島原発から退避する情報を持っていたにも関わらず、それらの判断基準を国民に周知しなかった点を糾弾したため、危険人物として排除されはじめる。テレビやラジオなどで、国家賠償訴訟の際にいずれ証拠として必要となるとし、行動記録を取ることを周知したため降板となる。
公益社団法人「日本ジャーナリスト協会」(旧・自由報道協会)を創設。王丹、ダライ・ラマ14世、ドルテ・ジーデントフ、ロベルト・バッジョ、アレクセイ・ネステレンコ、鳩山由紀夫、石原慎太郎、菅直人、アーニー・ガンダーセン、佐藤優、櫻井よしこ、ラファエル・アルチュニャン、孫正義、小沢一郎、堀江貴文、一色正春、上原春男や、都知事や参院選などの候補者の合同記者会見を実現。
一般社団法人「Voice of Fukushima」を福島県で創立。当初、佐藤正彦氏とともに共同代表に就任する。
元電通の武藤真登氏と株式会社「U3W」(ネットメディア)を共同設立、共同代表兼ニュースキャスターを務める。
2012年
株式会社 NOBORDERを設立(2018年 株式会社 NOBORDER NEWS TOKYOに社名変更)。日本初のネットスポーツ中継会社として、Tポイントレディスゴルフトーナメントやアディダスカップなどの中継を行う(博報堂DYと)。
2014年
6月、「ニューズ・オプエド」放送開始。プロデューサー兼アンカーを務める。
東京メトロポリタンテレビ「淳と隆の週刊リテラシー」でロンドンブーツ1号2号の田村淳とダブルキャスターを務める。のちに解説委員となる。
2015年
5月、「日本ゴルフ改革会議」(JGC)を設立、事務局長を務める(議長は大宅映子氏)。東京オリンピックの会場問題でIOCバッハ会長などへ提言。
2016年
新潟県の調査委員会によってメルトダウンを判断するマニュアルが東京電力に存在したことが判明したほか、TBSは記者が避難したことを立証する番組を放送。追及してきた事柄が真実であったことが証明され、名誉を回復した。憲政記念館で各界関係者が集まり「上杉隆君の名誉回復の会」を開催される。
7月、東京都知事選に出馬し、約18万票を得て21人中4位で落選(当選は小池百合子現都知事)。
11月、米大統領選挙取材。トランプタワーで独占取材し、スクープ映像をNOBORERクレジットで全米に流す。
2017年
ウェストパームビーチでの日米首脳会談(トランプ大統領&安倍晋三首相)、シンガポールでの米朝首脳会談(金正恩総書記&トランプ大統領)を日本のメディアで唯一の現地取材に成功する。
2018年
「ニューズオプエド」1000回記念放送
京都市でAIのソリューション会社「AI SOLUTION KYOTO」(現株式会社メディアカウンター)を設立し、共同代表に就任する。
2019年
1月、京都聖護院門跡にて得度。本山派修験宗僧侶となる。
​4月、中央区長選に出馬。得票率24%余りで次点落選(当選は山本泰人現区長)。
7月、社長を退任、N国党(NHKから国民を守る党)の幹事長に就任、国内でのジャーナリズム活動を一時停止する。
8月、ニューヨークでの国連総会取材(コロナ前の最後の海外取材)。
2020年
5月、㈱八ヶ岳高原テラス取締役会長に就任し、25年ぶりにホテル業に参加。
7月、(株)八ヶ岳高原テラスを長野県原村に設立、取締役に就任。
8月、堀江貴文氏の音声メディア「Zatsudan」に参加。
9月、(株)AIソリューション京都(現㈱メディアカウンター)代表取締役に就任。
2021年
12月、本田圭佑氏のオウンドメディア「NOW VOICE」に参画。​​
2022年
5月、 ㈱The PR Company(旧㈱AICC)代表取締役社長を退任、顧問へ。
6月、㈲「にいがた経済新聞」編集主幹に就任。
10月、ジャーナリズム活動を一部再開
   『週刊SPA!』(扶桑社)、6年ぶりに連載を再開
12月、すべての会社の経営から退く。
2023年
1月、執筆活動再開


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