地域で愛される会社 味の明太子 ふくや 

2日間福岡博多にいます。いい会社にしようと取り組んでいるNECネッツエスアイの研修の一貫で、久しぶりに、味の明太子「ふくや」が運営する見学できる明太子工場「ハクハク」を訪ね、川原正孝社長(以下川原社長)のお話をお伺いし、明太子づくりも体験しました。








会社名株式会社ふくや
住所福岡市博多区中洲2丁目6番10号
資本金3000万円(ふくやグループ全体では5億3300万円)
事業内容味の明太子の製造・販売
各種食料品の卸・小売
代表者名代表取締役社長 川原正孝
従業員数611名 ※平成28年6月1日現在

(一覧の画像は同社ホームページhttps://www.fukuya.com/hitosuji/index.htmlより)

ふくやは、日本で初めて明太子をつくった会社です。朝鮮半島と九州の間は、暖流と寒流がぶつかり合うところで、戦前は、寒流魚であったスケソウダラが、朝鮮半島で、よく捕れました。そのため、身から内臓、眼まで食べられるスケソウダラは、当時の大切な栄養源であり、キムチを日常的に食べる習慣がある韓国から輸入していました。しかし、温暖化の影響か・・スケソウダラは取れなくなり、また、敗戦によって韓国からの輸入はなくなりました。

川原社長のお話に、私の方で、知っていることを補足してお伝えしたいと思います。

「めんたいピリリ」というドラマが3年ほど前、九州のローカル放送で高視聴率であったために、フジテレビの深夜でしたが全国放送されました。3年前は、日本で最初に、明太子を作ったふくやの創業者川原俊夫さん(以下俊夫さん)の生誕100年だったからです。





創業者の川原俊夫さんが、ふくやを創業して引き継ぐまで


俊夫さんは、6度、戦争に駆り出されて最後は宮古島で終戦を迎えます。宮古島は、あまり戦闘の地ではありませんでしたので戦死せずに済んだわけですが、知り合いや友人が次々と亡くなっていく姿を目の当たりにしていました。
1945年の終戦の年、運よく生きて福岡に戻ってきました。戦争に行くまでは、俊夫さんは、自分のための人生だったそうですが、戦争で人生観が変わりました。友人の死を数多く見てきて、「残された自分の人生は、人のために何か役の立つことをしたい」と考えるようになりました。そして、サラリーマンをやっていたのでは、資金的にも時間的に融通がきかなくなるという理由で食料不足の時代であったこともあり、作ったのが食料品店の富久屋です。
店を始めた当時は、明太子ではなく、缶詰、塩、砂糖なども売っていました。俊夫さんは、韓国にいるとき、モノを作るのが好きだったそうです。そこで、戦後、博多で食べ物を作って売り出しました。最初に作ったのが朝鮮飴で、他にはソフトクリームなども作っていました。

中州は、引揚者のためにつくった町。俊夫さんは、満州国があった当時、釜山の学校に行っていますので、博多には、地縁、血縁がありません。また、引揚者で信用や財産もありませんでした。そのため、まず、現金が直ぐに回収できる食べ物屋にしたのも前述以外の理由の一つです。こうした歴史から、ふくやは、今でもずっと現金仕入れ現金販売です。
俊夫さんが商売を始めた頃、戦前から大きな店が近くにありました。小さなところが大きなところと競争する際、やってはいけないことが2つあると、常々言っていたそうです。それは、価格競争、サービス合戦です。そのため、当時、大手がやらないものを苦労して海外から仕入れて販売をしていました。しかし、直ぐに、大手に真似されてしまったそうです。千鶴子さんは怒っていましたが。俊夫さんは、次の商品を探せばいいと、いつも前向きだったといいます。

大きなところがやっていない商品を作ろうと考えたのが、釜山にいたときに大好きだった明太子です。そして、明太子を10年かけてつくるのですが、そのことは後に詳しく書きます。

お母さんの川原千鶴子さん(以下千鶴子さん)は、必ずお茶を出したそうです。お客様とコミュニケーションを取るためです。まず、お茶を出すことによって、ありがとうといった会話が始まります。お客様からお話を聞くのが千鶴子さんのやり方でした。川原社長は、金融機関に勤めていたとき、千鶴子さんから、「自分のことをしゃべるのではなく、聞くことが大切だ」と教えられたといいます。

ふくやの本店は、当時から現在に至るまで朝の7時半から12時まで開けています。ある時、料理屋のオーナーのお店が店に来て、暇で暇で仕方がなかったといった愚痴をこぼしていました。千鶴子さんが何度か次茶をすると、茶柱が立ったそうです。すると、縁起がいいと、その料理店のオーナーは物凄く喜ばれました。そして、急に、「今日は、絶対、お客様が多いだろう」と、そのお客様が、ふくやの商品を買い始めたのです。千鶴子さんは、商品を無理やり売るようなタイプではありませんが、その時、絶対、この人の店は、今晩は、忙しいといった予感がして、次々と商品を紹介したそうです。

川原社長は、「何で忙しいとわかったのか?」と千鶴子さんに聞くと、「来たときは、機嫌が悪かった。だから、そこの店員さんは、オーナーや板前から怒られていただろう。喜んで気持ちよくお店に帰られたから、きっと、お店で働く人にやさしく接するだろうから、お店の人は元気になるに違いない。元気な店が忙しい。忙しい店は元気。忙しい店で暗い店はない。」といわれました。
こうした千鶴子さんからの教えもあり、商売は、いいときも悪い時もある。ふくやでは、悪い時でも元気のあるような店をしようと川原さんは考えました。

川原社長は、時々、茶柱を箸でつまんで皿に入れる風景を見ています。元気がなさそうなお客様が来ると事前に用意した立つ茶柱を忍ばせてお茶に入れ、元気が出るようにしたそうです。そうしたことを繰り返す内に、ふくやに、わざわざ、遠くから自転車に乗って来店されるようになりました。今、思えば、全くお金が掛からないサービスだったと川原さんは振り返ります。これが、俊夫さんが常々言っていたお金のかからないサービスや仕組みです。

ふくやでは、値引きは一切ありません。戦後は、いくらだった買う?150円だったら買うよ。といった相対が当り前でしたが、消費者の立場からみれば、値引きが上手の人と下手な人がいると不公平になるために、いつも正価販売しました。社員特別価格もありません。俊夫さんの考えは「社員に優遇するのだったら、給料を増やせばいい!」だからです。そのため、川原社長も、自分の会社の商品を正価で買って帰ります。

明太子の話に入ります。俊夫さんらが、釜山にいた頃、キムチの中には魚の内臓その他があって、そのまま食べていました。お父様の時代に食べたのなら塩辛の自分たちが食べてみて、生臭く塩分が強すぎました。だったら作ってみようかと、明太子づくりに取り組みました。昭和24年のことです。真っ赤な唐辛子でつくった最初の明太子は、辛すぎて文句を言いに来たお客様もあったと言います。韓国では、キムチなどで唐辛子に慣れていて売れていますが、日本人の味覚とは違ったのです。ちなみに、ふくやは、俊夫さんの生誕100年を機に、復興版のホットエンペラーを1000個だけ作りました。今の標準の13.5倍の辛さです。売れないと思っていましたので1000個の限定販売でした。川原社長は、予想に反して、10倍の10000個以上売れたことで、日本人の味覚の変化を感じたそうです。俊夫さんは、辛すぎるとクレームがあっても明太子づくりをやめませんでした。それは、自分たちがおいしいと感じていたからです。俊夫さんは、時間がある時は、PTA、民生委員会など、様々な会合に出て、自分が作った明太子を持っていき、集まった人に食べて意見をもらい改良していきました。

昭和35年頃になると、東京や大阪でも、明太子が売られるようになりました。ふくやで作ったものを並べさせて下さいと頼まれたが、俊夫さんは、卸はやらない。自分でつくったらいいと、作り方を教えました。俊夫さんは、同業者に冷蔵庫を設置させ、ふくやと違う味にしてといった話をして原料も教えました。昭和40年代になると かねふさ、やまや 鳴門屋などが、成長していきました。そんな時、ある人から、特許や商標の話があり、俊夫さんに聞いたことがあるそうですが、「誰が作ってもいい。明太子は、いろいろな味が合ったほうがいい。」と、逆に製法を教えて回りました。こうした俊夫さんの考え方も影響してか、現在、包装紙があるところで100社が自家製、包装紙がないところを合わせると約300社の明太子屋が博多にあります。

現在、明太子の市場規模は1300億
です。ふくやは明太子の純粋な売上が100億ほどです。
他の明太子会社が市場、空港、で売れ始めたことで、市場は広がっていきました。特許とか商標にこだわっていたら、これほど、広がらなかったかもしれません。しかし、空港、百貨店、他の店が出して大きくなるのが面白くないと、古手は、52年から53年独立していきました。

他店が成長していく中、ふくやは、相変わらず店舗2店舗だけでやっていました。
昭和50年に新幹線が開通したことも追い風になりました。しかし、ふくやは、デパート、にも出しませんでした。その理由は、今でこそ、店頭に冷蔵庫がありましたが、当時はありませんでしたので、野済みのままでは品質が落ちると考えたのも卸はやらなかった理由です。ふくやは、完全に生で改良して2店舗だけでやっていましたが、昭和50年に新幹線が通ってから、わざわざお客様が来きて並ばれて買われ始めました。

そうしたおり、昭和53年から俊夫さんの体調が悪くなり入退院しました。そのため、昭和54年には、お兄さんの健さんと川原社長は銀行にいましたが、俊夫さんから呼び出されました。本来は長男の健さんが戻らないといけないのですが銀行を直ぐに辞められません。それではと川原社長がふくやに戻ることになりました。ふくやは地域のためにつくった店ですし、その当時、既に60名いましたので、何とか続けなければならない状況だったのです。

正孝社長が引き継いでから現在に至るまでの取り組み


①徹底的に教育に力を入れる


川原社長がふくやに戻った昭和54年では、「こんなに社風とは変わるのか?」と愕然としたと言います。お茶も誰も出していない。食料品店に配達もしていない。社員もオール男性で誰も女性がいない。いらっしゃいませ。ありがとう。がなくなっていました。お客様は並んで買いに来ていたので、一人でも多くこなすことが当たり前になっていたのです。
川原社長は、「これではまずい」思いました。川原社長が、銀行から戻る時、売上は、3番目に落ちていて1番ではありませんでした。ふくやも70%80%増となっていましたが、他社はそれ以上に伸ばしていたからです。こんな状態が5年も続くと間違いなくふくやはおかしくなると感じました。
味も研究をしたら、マネされて同じになれば、いずれ、明太子も同一金利の銀行と同じ立場になる。2店舗しか営業していないふくやは、間違いなく衰退していくだろうと感じたといいます。

川原社長は、窓口応対コンクールをやったら、必ず受賞する女性行員らに、ふくやに話をしてもらったりしていた。しかし、研修をしても半年で元に戻ってしまいます。研修を受けても役に立たないが、どうしたらいいか?迷った末、友人にも相談すると、自ら学ぼうとすれば身に付くと言われ、その通りに実施すると結果が出ました。川原社長は、自ら学ぼうという環境をつくるのが、経営者のお仕事だと言われました。
社員がやりたい資格を自由に取らせました。勉強をしたらモチベ―ションが上がり成果が出ました。資格制度をつくり、ドンドン資格に挑戦させました。販売士の資格はほぼ全員取得しています。それ以外にも、簿記、ビジネス文章、秘書検定、消費生活アドバイザー、船の資格まで取っている社員もいます。

千鶴子さんと相談して、新しい血を入れようと試みて、高校を卒業した人がふくやを3人入りました。自ら学ぶということが重要なことを思い出しました。そこで新しく入る社員に課題を出しました。課題は、4月1日の入社式までに、評判がいい店や悪い店に実際に行って理由を考える。あるブティックの話では、どんな色が流行っていますか?と聞くと詳しく教えてくれる。すると必ず買いたいといったこと気持ちになったなどの報告が上がりました。5分、10分の短時間で、店頭から帰れた店。どうしたら、気持ちよく帰ってもらえるか?を考えてもらうなどしました。
また、3カ月間、アンケートをしたそうです。その調査結果は、受け答えが良いとチェックしたお客様は、全て明太子が美味しかったといったところにもチェックが付いていました。
逆に、接客態度が悪いとチェックされたお客様は 例外なく味が普通のところにチェックがついていました。つまり、店頭の接客により、値段も味も変わるのです。まさに、ブランドは、店舗、商品によって関わることがわかり 社員教育に力を入れるようになります。マニュアル化で、お客様は90%満足できるかもしれながいが、100%は無理、10%は埋められません。その10%を埋めるのは、感性が重要だと考えて、非日常的なことをやってもらうようにしました。映画鑑賞、美術館、ウインドショッピング、地域の様々な会に入ってもらう。会社の人とは全く違う人と会う。年齢が高い人低い人いろいろです。
そして、PTA会長5000円。ママさんバレーの指導に3000円などを月額出したり、会に参加している人は、年会費は、ふくやで負担することにしました。例えば、青年会議所は、経営者の2世の集まりですが、15年程前400人の理事長は、ふくやの社員がなったりもしました。
10%の差を埋めることも大事ですが、社員を会社人間にしたくなったのが川原社長の思いです。会社を卒業すれば、地域に帰らなければならない。地域活動をすれば、肩書のない中でのリーダーシップが発揮しなければならない。会社の中では肩書でリーダーシップが発揮できても地域では肩書は通用しません。

②味に徹底的にこだわる


川原社長が、銀行でやめてお客様を回って、明太子屋さんが数多くあってわかりにくいから、「あんたのところが、最初に明太子を作ったのであれば、元祖と書いたらどうだ」といわれたことがありました。そこで、川原社長は、俊夫さんの体調がいいときに、思い切って「元祖とつけていいか?」と聞ききました。その時、俊夫さんは、「元祖が書いて味がよくなるんだったらそう書けばいい。間違っても明太をつくった店がNO1だと思うな。大きい店がNO1とも思うな。味のNO1が本当に一番だ」このことを聞いて、川原社長は、味を守り進化しなければならない!と思ったそうです。
川原社長は、俊夫さんが言った通りにして良かったと、後に実感することになります。東京 デパートで、明太子戦争が起きたことがあります。北海道が「博多は原産地でもないのに、なぜ、名産なんだ?」といったことを言い出したのです。しかし、結果は、博多が勝ちました。理由は、味がよかったらからです。
NO1は味がおいしい。だから、味は負けない。品質は落とさない。地域のNO1になる。と川原社長は確認したそうです。

③納税額で俊夫さんを越える努力する


ふくやの経営理念は、強い会社良い会社は、必ず利益を押さえなければならないと考えています。
俊夫さんの夢は、福岡で納税NO1になることでした。亡くなる前にこの夢が実現します。
2億円、1億5千万 地方税3600万 残り1400万円が俊夫さんの収入でした。
銀行出身の健さんと川原社長は、法人化した方がいいと俊夫さんに提案しますが、「道路は、税金がないとできんやろう・・」と一括されます。しかし、川原社長の経営能力であれば、無理だと感じて法人化しました。これは、川原社長がお兄さんの健さんに相談すると、「法人化して利益を倍にすればいい。額でいけばいい。」と言われ法人化に踏み切りました。
利益を出して雇用を守るのが、一番の社会貢献であると俊夫さんも川原社長も考えています。優秀な社員が集まり、社会情勢に進化する。だから、「革新と挑戦」をスローガンにしました。

④今後、ふくやが実現したい会社


・夢のある会社
・誇りに思える会社にしたい会社
・地域から認めてもらえる会社
・ABC、当り前のことをバカみたい、ちゃんとやる。会社。
・社員を大事にする会社にする会社
例)給料を増やすと、とういうまで、定年まで頑張ってください。中学校はいって、50歳まで頑張ったら、家一軒建てられるようにするといった俊夫さんは常々言っていました。昭和30年代から終身雇用を前提であったそうです。

・ふくやが無くなっても生きていける社員がいる会社
→会社の寿命より、今いる社員に何ができるか。どこの会社でも通用しない会社20名 経理二人。これしかできないではなく、こんなこともできるで社員は強くなる。

・元気で楽しい会社
 →1997年金融危機、官官接待禁止で、お土産の禁止。ふくやの明太子がお土産に使われていたために、業績は落ち込んだそうです。その際、川原社長は、お母さんの千鶴子さんのことを思い出し、会議をやるのではなく、社員旅行やボーリング大会などを業者まで巻き込んでやったそうです。リーマンの時も同じでした。カラ元気でもいいから明るくすることが大切だと思ったからです。
・うそのない正直な会社
・環境に良い会社。

⑤川原流 運を良くする方法


どうして商売はうまくいくのか?
俊夫さんは、普段から、運がよかったらうまくいくと言っていたそうです。
・運はどうしたら良くなるか?
→運がいい人と付き合え
・どんな運のいい人か?
→人の喜びを自分の喜びと思える人。(利他の精神)例えば、パンを割ったとき、大きい方を相手に渡せる人だそうです。
・運は動き回ること
→運という字は、軍が走ると書きます。つまり、待っていて、じっとしていてはいけないということです。
・人のため、地域のために、やること。(たらい水の法則)
→ふくやは、博多に、お返しをする会社、福岡は受け入れをすると、結果として運が強くなるそうです。

まだまだ、お伝えしたいことはたくさんありますが、この位にしておきます。

本当にいい会社に訪問すると、企業経営の原理原則が何で、大切なことは何かを思い知らされます。

以前、私の本でも書きましたが、1月に発売された坂本先生が書かれた「日本でいちばん大切にしたい会社5」にも、ふくやさんのことは取り上げられました。












【筆者プロフィール】
藤井正隆
株式会社イマージョン代表取締役社長

人を大切にする経営学会理事・事務局長


社会性と経済性を両立させた経営を実現している「いい会社」研究と変革支援がライフワーク。大学院の特任研究員として活動し年間100社以上の全国各地の優良企業を現場視察し、経営学を中心にそのメカニズムを研究。企業事例と理論を融合しわかり易く伝えている。


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